岐阜獄中記 ~アキバから岐阜へ~

アキバを離れ、陸の孤島「岐阜」に収監(就職)されたオタクの話

断罪しらんけど

 牢獄で自我を忘れないために自問自答を繰り返す。歯車として魂があるだけの肉塊となり下がらないように。自分自身を見つめ直す、自我を忘れないために。 

 

 コロナ禍でなかなか友人と会えない日々が続くと、人との繋がりの大切さが染みてきます。今はオンライン飲み会などで交流をしてます。地元の友達・中学の友達・高専の友達・監獄の友達ets...人生の転機・区切りに環境が変わり、自分自身もその変化の影響を受ける。そして変化した自分に新しい人間関係が出来る。年代ごとの友人関係を見ると自分の性格や個性がなんとなく客観的に見れますね。

 

 私の例で云うと、地元・中学の友達はやんちゃしてるヤツや年中バカ騒ぎしてるヤツが多いです(いい意味でね)。この頃の私も一緒にバカ騒ぎしてよく怒られてました。高専の友達はオタクが多いです。中学までは隠れオタだったのに、高専と云う特殊環境によって外界から遮断されてオープンオタクに変身してます。監獄の友人は不平不満を愚痴り合いながらお酒を呑み一攫千金と脱獄を夢見る同志が多いです。こんな感じで変化する私や友人関係。大人になるほど、歳や経験を重ねるほど立ち振る舞いや考え方はそれに合わせるように変化します。しかし、根っこの部分の性格は変化しないのが人間。

 

 天然性格なヤツは成長とともにベクトルを変化させながら天然のまま。お人好しなヤツは正義・善行の定義を更新しながらお人好しを続けています。ちなみに私はテキトーな性格です。あれこれ深く考えずに人生をやり過ごしています。歳を重ねるにつれて「ほどよい」方の意味に近づきながらテキトーな性格を続けています。マイナーチェンジを重ねながらきっと成熟していくのだろうと考えます。型月で云うところの起源という概念です。もし私の起源が「適当」ならこれを極めるのが定めなんでしょう(ダサい起源だけど)。

 

 人生のスタートは社会人になってからなんて云いますけど、社会人になるまでに築いてきた20年ぐらいの性格は簡単にフルモデルチェンジはできません。幼少から学生時代をどう過ごしてきたかで性格は決まります、って学生時代に授業で教わりました。確かにそうだと今実感してます。自身のテキトー加減は変わるかも知れないけど、大本の性格まで変化するとは思えない。いい性格?になりたいなら親の教育方針が重要ってことです。

 

 話はそれますけど、きっと幼少時代に「しらんけど」の概念を理解していたら口癖になっていただろうと思います。関東出身には未だに理解し難い概念ですが。

監獄のある岐阜は関西寄りなので投獄されて初めて「しらんけど」の概念に触れましたが、自身の起源を「適当」だと思う自分でさえ「しらんけど」は理解し難いです。もちろんウィキペディアなどのネットで解説している内容の文面は理解できますが、それを使用している人間の心情が理解できない。説明の後に「~なんだと思う」までは理解できるが、その後に「しらんけど」を加えられたとたん「は?今の説明なんだっただよ」となるのが毎回。説教や議論で一方的に云われて最後に「しらんけど」と云わっれたときは聞き流すつもりの内容が聞き流せなくなり「ちょっと待てよ!!」となる。そして方言だからしょうがない感があり免罪符になっているのも許せない、タチが悪い。仕事でそれ使うなよ!とテキトーな私がテキトーになれない。許さん「しらんけど」。

 

PS.今期のアニメは良作2期ものが多くてとても良い。